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甲子園の土を最初に持って帰ったのは誰?持って帰る理由と量は?

高校野球の甲子園大会で、敗退したチームや優勝チームが内野グラウンド内の土を袋に入れて持ち帰る光景がよく見られます。

通常、スポーツを行なう会場の土を持ち帰ることはありません。

走り幅跳びの砂や水泳競技会場の水を、選手達が持って帰ることはありませんし、甲子園以外の野球場の土を持って帰ることもほとんどありません。

他のスポーツでは見られないことですが、なぜ甲子園では毎回土を持って帰るのが慣習となっているのでしょうか。

土を最初に持って帰ったのは誰なのか、持って帰る理由と土の量は決まっているのかについて解説します。

甲子園にある土は何のためにあるの?

(内野の整地用土)

プロ野球12球団が本拠地としている球場のなかでは、甲子園球場だけが内野が芝ではなく、独特の黒土を使っています。

夏の甲子園のときは、黒土6:白砂4の割合でブレンドし、内野地面を整理するために使われています。

現在は高校野球で出場した選手達が持ち帰るのが慣習になっていますが、定期的に補充しているので無くなることはありません。

甲子園の土を最初に持って帰ったのは誰?

(持ち帰りの事例は3例ある)

甲子園の土を最初に持って帰ったと言われる事例は3例ありますが、実際に持ち帰るのが定着したのはいつ頃からなのかは、はっきりわかっていません。

①1937年:夏の第23回大会説

・・・決勝戦で敗れた熊本工業の投手川上哲治が、甲子園の土をポケットに入れ持ち帰り、熊本工業のグランドに撒いたという説です。

川上は甲子園以外の場所で、同じことをした選手の真似であったと語っていました。

②1946年:夏の第28回大会説

・・・準決勝で敗れた東京高等師範附属中(現・筑波大学付属中学校・高等学校)の佐々木監督が、最上級生以外の選手達に来年また来ると言う意味で、各ポジションの土を持ち帰らせたという説です。

新聞に記録されている最古の持ち帰りですが、甲子園ではなく阪急西宮球場のことなので、甲子園の土の持ち帰りとは言えません。

③1949年:夏の第31回大会説

・・・準々決勝で敗れた小倉北の投手福嶋一雄が、ホームベースの後ろの土を無意識にポケットに入れて持ち帰ったが、大会役員からの手紙によってポケットに入っていた土に気づき、玄関の植木鉢に入れたという説。

これらの出来事が、どのようにして現在のように、土を持ち帰ることにつながったのでしょうか。

甲子園の土を持って帰る理由は?

(持ち帰りの理由は?)

①甲子園に出場した記念

・・・甲子園の土は販売されていないので、持ち帰るのは選手の特権となっています。

②甲子園に再び来るぞという気持ち

・・・負けた悔しさを忘れずに、再びこの地に戻るという誓いを立てるためです。

③ベンチ入りできなかった部員のため

・・・一緒に頑張ってきたが、ベンチ入りできなかった部員に記念のため渡します。

④自校のグランドに撒くため

・・・甲子園の土を撒いて、甲子園への出場を目指します。

⑤後輩のため

・・・甲子園への出場と勝利を後輩に託すため。

主にこれらの理由で持ち帰ることが多いのですが、選手の中には持ち帰らない学校や選手もいます。

持って帰る土の量には決まりがあるの?

(そもそも持って帰っていいの?)

①持ち帰り用の土では無い

・・・甲子園で選手達が持ち帰る土は、本来、球場のグラウンド整備のために用意している土なので、持ち帰り用の土として置いているわけでは無いのです。

公式に「持ち帰り用の土」としているわけではなく、単に持ち帰りを黙認しているだけなのです。

②2020年から持ち帰り禁止

・・・そのため、球場側が持ち帰りは禁止ということになれば、持ち帰りするのはNGということになります。

(2020年からは、新型コロナの感染予防のため、土の持ち帰りは禁止されています。)

(持ち帰る土の量は?)

①持ち帰りを前提としていないので、量は制限していない。

・・・土を持って帰るシーンを見ていると、結構な量を袋に入れているようですが、持ち帰る土の量は決まっているのでしょうか。

選手それぞれが大量に持ち帰ると、すぐにでも土が無くなるような気がしますよね。

結果として、公式に持ち帰りOKとなっていないので、持ち帰るのを前提としての量を制限していることはありません。

あくまでも黙認しているだけなので、持ち帰る量は各学校の判断に任せています。

ただし、現実には土を持ち帰るので、定期的に土を補充していますが、野球大会が終了するまでには約2トンの土が使用されています。

まとめ

甲子園の土を持って帰るのは見慣れていますが、出場選手の記念のために用意されているのではなく、黙認されているだけだったのですね。

でも、その黙認が何十年も慣習として残っているのも、ルーツがはっきりしないというのも面白いですね。